よ。それから始まっていつの間にか献体の方を彼がやっていたようでしたね。 三橋 ともかく最初お目に掛かったらさんざんいろんなことを言われるんですよ。なんだかこのばかやろうみたいなことを言って。それで最後には今度はほめて持ち上げてから帰してくれるんですよ。(笑)それでおみやげなどくれましてね。あれが人を集める力があるんではないかなと思うんですが。 内野 献体の団体で法人化を認められたのは不老会だけなんですね。前畑先生、この辺のご事情はご存じですか。 前畑 いや、もう随分昔の話ですから存じません。 倉屋 私たちの考えてることを一般の人に理解してもらうことから始めるのが一番大事なことだっていうことだったんですよね。ところが彼の場合には、それをするのにはそういう力を借りなきゃだめだっていう考え方があってやってったということでしょうね。 内野 竹内先生のとこには陳情なんかに久野さんは行かれましたですか。 竹内 はい、多分お目に掛かってるんじゃないかと思いますが。 内野 ご記憶はございませんか。 竹内 ええ、ちょっと。まあ、政治家が記憶がないと言うとこのごろ評判が悪いんで すけど、(笑)ちょっとはっきり記憶がないんですけど。ええ。 三橋 ともかく愛知用水を作ったり大きなモニュメントも作られましたね。実行力はあるんですよね。 内野 朝日新聞の藤田真一さん、この方は、例えば移植とか、尊厳死とか。 佐藤(達) 出産とかね。 内野 そうですね。そういったような問題にも随分取り組まれて、最後は献体、最愛のお嬢さんを亡くされたということもあって、とりくまれた方ですね。この方についてどうでしょうか。 星野 我々の運動でここがキーポイントだというようなときにここでひとつプッシュして欲しいというと、新聞の半面ぐらい使って記事を書いてくれたんですよね。あの、彼の協力がなかったらあんなに社会的にアピールできなかったと思うんですよ。 倉屋 これは誰がどうしたっていうことよりも、人間誰でも人のためになることをしたいという願望を持ってるはずなんですよ。それがものをいってるんですよ。 内野 そうですね。それをもとにやはりマスコミの力のすごさを感ずるのは、小さい記事でも新聞に出ますと今の献体協会の事務局にも普段の10倍ぐらい電話が入るんですね。そのぐらいやはり新聞の力は大きいんですね。 それから竹重先生ですけれども、実際に学術会議にお出になって政治家の先生方を動かされたのですけれども、いかがですか。 佐藤(達) 竹重先生はとにかく粘りのある人でしてね。それで竹重先生は高木先生の後輩なんですね。九大ご出身で。それで俺、お前という仲だったんじゃないでしょうか。そういう人脈というものも無視できないし、それから献体法を作っていただいた前畑先生がやはり九大ご出身でいらっしゃって九州のトリオと言いたいような、(笑)そういう因縁というものをちょっと感じますですね。 星野 非常に気さくなね。 佐藤(達) そうですね。非常に気さくで優しくて、それで非常に積極的で腰の軽いっていいますか、すぐ行動に移してくださるという。 内野 銀座のバーなんかでも大変な顔で、そういう点でもすごい、昔の殿さまっていう感じがしましたね。
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